活動するゴジラ

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Step up

Mr.Donuts(以下、ドーナツ氏)の箱がテーブルに置いてあったので、コーヒーを用意し、二つ食べることに。ポンデストロベリーとチョコレートを取ってお皿に置く。机まで運び、好きなドラマをつけてよし食べようとしたとき、目に入ったのはドーナツではなかった。

いや、確かにドーナツを運んできたはずだ。それなのに、皿の上には、イチゴがかかったポンデリングと、糞がのっていた。おかしい。確かにさっきまでドーナツだったそれは、自然を装ったまま変化を遂げている。

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お分かりいただけただろうか?筆者の撮影技術によりクソ感は減少しているが、実物はまさに糞そのものだった。昨日散歩したとき、道端に転がっていたそれと同質な見た目をしている。

正直、食べるかどうか本当に迷った。明らかに糞の風貌をしたそれは、確かにドーナツ氏の箱に収められていた。色および凹凸は完全に糞のそれ。

ひとくち齧ってみる。美味しい。チョコの味がする。まだ糞ではない。臭いもしない。糞ではないのかもしれない。一抹の安堵。しかし、すぐに新たな不安が訪れる。私は糞を食ったことがない。糞の味がわからない。つまり、これが臭いを完全に消されている糞だった場合、私は区別することができないのだ。口に入ったこれが糞だとわからないで飲み込んでいるかもしれないのだ。

冷静になってみる。はは、普通に考えて糞がドーナツ氏の箱に入っているわけがないだろう。たまたま糞に良く似たチョコレートドーナツだ。

しかし、こうして冷静になる材料としては、実体として存在しない“常識”、それひとつだけである。実感としての見た目に対する危機感と比較した場合、私の脳は視神経による報告を否定できない。

私はこのときをもって、糞を食べてない側から、糞を食べたかもしれない側へと移行した。新たな人生の幕開けである。